岡田さん その意気込みはハンパじゃないです!

岡田さん その意気込みはハンパじゃないです!

 

岡田武史(おかだ・たけし)
1956年大阪府大阪市出身。大阪天王寺高校、早稲田大学政治経済学部卒。84年に古河電工入社、サッカー部に。日本代表にも選ばれ、189試合9得点の活躍。90年に現役を引退し、古河電工のコーチに。その後、ドイツへサッカー留学を経て、ジェフユナイテッド市原のコーチに就任。94年からは日本代表コーチに。そして、97年10月、前任の加茂監督の更迭により日本代表監督に就任。サッカーワールドカップ(W杯)初出場を果たす。その後、コンサドーレ札幌、横浜Fマリノスの監督を歴任、07年より、再び日本代表監督に。W杯南アフリカ大会ベスト16の成績を残す。現在は、FC今治.夢スポーツの代表取締役会長であり、日本サッカー協会副会長も務める。

9月1日(木)からいよいよスタートするサッカー「ロシアW杯アジア地区最終予選」(テレビ朝日系列で地上波生中継)。数々のドラマが生まれたW杯最終予選を、当事者たちと振り返る。そんなW杯最終予選で“歴史を変えた”ひとりが、オカちゃんこと岡田武史さんだ。

「ドイツでプロ」という一生の夢が潰えた瞬間。

「俺、中学を卒業する時に、“ドイツに行ってプロになる”って言って親を困らせてね。当時サンケイスポーツの運動部長だった賀川 浩さんのところに連れて行かれて、説得されたんだよ。後から聞いたら、賀川さんは“その子の勇気を汲み取って行かせてやろうと思った”っておっしゃってたんだけど、実際に来たのはメガネかけてひょろっとした俺だったから、やめるよう説得することに決めたんだって(笑)。それで俺はドイツ留学を断念したんだけど、“いつかドイツでプロになってやる”っていう気持ちは自分のなかにずーっとあったんですよ」

岡田さんはその後、大阪でも有数の公立進学校に進み、3年生の時にはユース代表に抜擢されてアジア選手権にも参加している。早稲田大学ではユニバーシアード代表に選ばれるなどの活躍を見せるのだけれど、実は一浪して一般入試で政経学部に合格。なんと最初は体育会ではなく、同好会に入ったという。

「“俺はサッカーだけじゃねえんだ”って、突っ張ってるんだよ。だからいつも岐路に立つとなんだかんだ言ってサッカーから離れようと…離れるふりをする。大学を卒業する時も、マスコミに行きたいって言って落とされて。素直に“俺はサッカー好きだ、サッカーやるんだ”って言えない人生なんだよね。ずっとハスに構えてて。それが大学卒業の時、サッカーで古河電工に誘われてようやく素直に自分の気持ちを認められるようになったんだよ」

それだけハスに構えながらも、中学時代の「ドイツでプロ」という夢を持ち続けていたという。いや、夢というより、本気で「いつか」と考えていた。

「無理だとわかったのがあの試合でしたね。現役はもうやめようと。そこで完全にプレイヤーとしての未練はなくなりました」

それが、1990年に行われたゼロックス・スーパーサッカー。日本リーグ選抜がドイツのバイエルン・ミュンヘンと戦った試合だ。前半に日産の木村和司が相手ディフェンダーをドリブルでかわし、先制。幾度かポストに嫌われるシュートもありながら、日本は1-2で惜敗した。当時、岡田さんは33歳。

「すごくいい試合だったと言われたけど、やってる俺は全然そうは思わなかった。むしろ“もう限度だ”と。それまで持っていたモチベーションとファイティングポーズが完全に萎えちゃった。それと同時に“次”を無意識に探してた。じゃあどうやったらこいつらに勝てるかという道を探そうと。それはもしかしたら、現役を退くことを決意するための逃げ道だったのかもしれないけど、俺はそう信じたんだよ」

「プロの指導者」として日本サッカーで生きていく。

岡田さんは、所属していた古河電工のコーチになった。

実は選手時代から、ピッチ上のコーチを自認していた。ロッカールームでは、独自のスカウティングによるその日の試合プランをチームメイトに授け、いつも「なぜ監督は俺が思うような練習をしないんだろう」とかすかな不満も抱いていた。

「でもいざ自分がコーチになった時にやってみると、全然うまくいかないんだよね(笑)。選手時代の俺は、いわばお釈迦さんの手のひらの上の孫悟空。全体が見えてなかった。それで2年間で行き詰まった。充電したいと思ったんだけど、“充電”っていうと会社から給料もらえないじゃん(笑)。だから、ドイツに1年留学させてくれと。古河電工って素晴らしい会社で、半ば俺の考えをわかったうえで行かせてくれたんだ」

ドイツにいる間に、日本ではJリーグの発足が決定する。

岡田さんは、というか、チームの選手全員がそれまで社員だった。安定していて、身分は保障されている。岡田さんだって現役引退後は一時、会社に戻って真剣に社長への道を目指すか悩んだともいう。それが突如、「プロ」として契約することになるのだ。

「当時僕は、自分で言うのもなんだけど、社員としての評価が悪くなくて、結構いい給料もらってたんですよ(笑)。それは、実際プロになってもさほど大きな差はなかった。逆に社会保険とかを考えると、リスクが高すぎた。すごく悩んだんだけど、日本のサッカーの流れが変わろうとしている時に、日本リーグで先頭を走ってるひとりである俺が、そこで安全策をとると、せっかくの流れを止めてしまうだろうと、プロになることを決断したんです」

日本サッカーの将来を鑑みて? と尋ねると、「そんな立派なもんじゃないよ」と岡田さんは笑った。

「自分がやってみたかっただけ。でも“やりたいからやるんだ!”って、家族には言えなかった。子どもも3人いたし、そこは言い訳だよね(笑)。まだ小さかったけど、子どもたち全員呼んで、“お父さんはこういうことをやりたい。いつクビになるかはわからない。ただそうなってもお前たちを食わせていく自信はある。だからやらせてほしい”って説明したんだ。どこまでわかってたかはわからないけど。カミさんはすぐに“やったら?”って言ってくれた」

実は岡田さん、学生結婚で、選手時代は夫婦揃って相当な貧乏生活を送ったこともあったらしい。

「代表に選ばれた時にはサラ金でお金借りて参加してたし、家は6畳一間に二人暮らし。会社の50円のカップコーヒーが飲めないのも普通だったからね(笑)。“いざとなったらあの時に戻ればいいだけなんだから、好きなことやったら?”って(奥さんが)背中を押してくれたんだ」

1993年、岡田さんはJEFユナイテッド市原のコーチになった。当時36歳。それが、その後長きにわたる「プロの指導者」としてのスタートだった。

引用元 http://r25.jp/entertainment/00052439/

 

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将来、自分が代表に関わるなんて思ってなかった。

「何にも覚えてないんだよ。実はこの約20年の間、試合の映像は1回も見てなくて。この間、テレ朝さんに見せられたのが初めて。番組作るうえで“ジョホールバルのホテルの部屋ってここでしたか?”って映像見ながら聞かれたんだけど、わかるかい! そんなもん(笑)」

自身、最大の転機だという。1997年、フランスワールドカップのアジア最終予選での日本代表監督への就任だ。コーチとしては、95年に日本代表に参加している。ドイツ留学の成果が出て、面倒を見ていたジェフユナイテッド市原のサテライトチームがメキメキ実力を伸ばし始め、岡田さん自身、非常に充実した日々だった最中のことだ。

「楽しかったから行きたくなかったんだよ(笑)。ドイツで監督と選手の立場の違いを痛感して、主語でいうと監督は常に“we”、でも選手は“I”。そんな違いを理解して始動したらうまく回り始めてたんだけど、新しい勉強かなと思って、受けることにした」

1993年10月28日、いわゆる「ドーハの悲劇」。94年アメリカワールドカップのアジア最終予選、カタール・ドーハのアルアリ・スタジアムでのイラク戦後半ロスタイムに、サルマンのヘディングシュートがGK松永成立の頭上を越えて決まった瞬間、日本のワールドカップ初出場の夢は潰えた。その時岡田さんはNHK衛星放送のスタジオで解説として控えていた。

「みんな、岡田さん泣いてた、って言うんだけど、泣いてないからね(笑)。言葉に詰まっただけ。本当にあの時、ワクワクしてたんだ、こいつらすごいことやりやがったなと。俺たちの世代にとってワールドカップって夢の舞台で、現実味なんてまるでなくて、そこにとうとう出る日が来たんだ! って興奮しきってた。大道具さんがくす玉を用意して“中継がスタジオに戻ったら引っ張ってください”って紐を持たされて。それがアレヨアレヨと言う間に撤収。“紐から手ぇ離して!”って強めに言われて、くす玉片付けた後“4秒で(スタジオに)戻ります!”って(笑)」

スタジオでの岡田さんは「アジアで日本は10回戦ってようやく5回勝てるレベルまできた。それを我々は次に向かっていかないといけない」と、切々と語った。次は俺が指導者としてリベンジしてやるという(結果的にはそうなったのだけれど)意識はなかったのだろうか。

「そんなことは何も考えてなかったよ(笑)。将来、自分が代表に関わるなんて思ってなかった。自分の原点として、日本人がどうやったら世界と戦えるんだろうとはずっと思ってたけど、現実に自分がやれることは想像の範囲内でしかないじゃない。その時は、せいぜいいつかJリーグの監督をやりたいなって思ってたぐらい」

それが、97年にはワールドカップアジア最終予選の途中に加茂監督解任という衝撃の展開。まさにカザフスタンからウズベキスタンへの移動の過程で発表になり、加茂さんからの連絡を受けて岡田さんがチームを受け継いだ。最初は1戦だけのつもりだったという。

「この前、井原(正巳)に会ったら、『岡田さんに変わってからの1週間ほどきつい練習はなかった。試合の時に動けなかったら、岡田さんの責任だってみんなで言おうって言ってたんです』って(笑)。俺はそんなにきつい練習した覚えないんだけど、みんなが必死にやって、ウズベキスタン戦に引き分けた。最後にあんなラッキーなゴールが入るのを見て、“この感じなら勝ち抜けるかもしれない”って記者会見で言った後、ロッカールームに戻ったらみんなわんわん泣いてた。あの冷静なモト(山口素弘)まで。そこで心底わかった。こいつらもどうしてもワールドカップに行きたいんだなと。こいつらを投げ出して俺がチームを離れるわけにはいかないな、って。それで日本に帰って加茂さんに、“僕、最後まで責任を取りたいと思います”って告げたんです」

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初のワールドカップ後は「やりたいようにやる」。

そして迎えたジョホールバル。

「当時、普通に電話帳に自宅載せてたし、脅迫状・脅迫電話が止まらずパトカーに24時間守られてるような状態だった。最後、ジョホールバルからカミさんに電話して、明日負けたらしばらくみんなで海外で暮らすぞ、ぐらいのことを言って。でもその後に、ある境地に達したんだよね」

遺伝子にスイッチが入ったという。当時読み漁っていた本の中にあった、生物学者・村上和雄の唱えた説を、岡田さん、実感したというのだ。氷河期とか飢餓期とか、人類はハードな歴史を生き延びてきたはずなのだ。その時には、それを乗り切るだけの力を出し、のちに伝えてきたに違いない。普段の生ぬるい日々では決して得られない感覚。それが「遺伝子にスイッチが入る」ということ。

「もういい、と。自分は今持ってる力を出す以外にできない。すべてを出してダメだったらしょうがない。自分の力が足らないことは謝るけど、それ以上は俺を選んだJFA(日本サッカー協会)の会長のせいだと(笑)。そう思った瞬間、完全に開き直った。怖いものがなくなった。後から思えば、あれってスイッチが入った瞬間だなと思ったんだよ。あそこから自分の人生は変わったという感覚があるよ。どう見られるとか、他人にどう思われるとかは、ホントどうでもよくなった」

岡田さんはその後、コンサドーレ札幌をJ1に昇格させ、横浜F・マリノスの2年連続優勝を実現し、改めて日本代表を率いてワールドカップ南アフリカ大会ベスト16に進出。求めれば、悠々自適な日々を過ごせるはずなのだが、中国スーパーリーグ杭州緑城を率い、今はFC今治の監督ではなくオーナーでありCMO(チーフ・メソッド・オフィサー)として、サッカークラブをベースにした新しい街づくりに着手している。

「とにかくフットワークが軽いから行っちゃうんだよね。やり始めたら実は大変で、もうやめようって思うこともあるんだけど、気づくと人と金が付いてきて盛り上がっていてやめられないというパターン。みんなにいつも“なんで苦しい道を選ぶの?”って言われるんだけど、面白いことがしたいだけなんだよ。気づいたら、前に行くしかないことになってる。自分が楽しいかどうかしか考えてなくて、俺、今年でもう60なんだけど、いい歳こいてこんなことやってる場合じゃないよね、ってことばっかりしてる(笑)」

引用元 http://r25.jp/entertainment/00052440/

 

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岡田さんの子供を育てる サッカー選手を育てると

言う想いはどれほど深いものなのでしょうか?

そしてその岡田さんを支え応援している奥様。

とても真似はできません。

ましてや借金までして続けていくお姿に熱く込み上げて

くる想いを感じます。

そんなお強い想いがあるからこそ素晴らしい子供達が育ち

また プロの選手を目指し日本を代表する選手を育て

そしてその選手たちの姿を見て次世代の子供達に夢を与え

そしてその子供達も育っていく・・・

岡田さんの気持ちが素晴らしい未来を担っていらっしゃるのだと

思っております。

素敵ですね^^

(Rose)

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幼い頃から楽しいことが大好き! 活発な性格でやんちゃな事もしていた私 結婚をして子供を2人産んで ぐうたら主婦になりました(笑) こんな私が何故か子供が通っていた幼稚園の保護者会会長になり それから短大の保護者会会長まで長きに渡り教育の現場に関わらせて頂きました武闘派の主婦です。

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