ほんとは誰?64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装のデザイナーは・・・

ほんとは誰?64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装のデザイナーは・・・

ほんとは誰?64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装のデザイナーは・・・

真紅のブレザーに白のスラックス。1964年の東京オリンピック開会式で日本選手団が着用した「日の丸カラー」の公式服装(開会式用ユニフォーム)は、服飾デザイナーの石津謙介がデザインしたとされてきた。
「石津デザイン」の記述は、現在もJOC(日本オリンピック委員会)や公的機関のホームページに掲載されている。
ところがその通説とは異なり、実際にデザインしたのは東京・神田で店を構えていた望月靖之という洋服商だという資料や証言が数多くある。望月とは誰か。
なぜ石津デザイン説が広まったのか。
(服飾史家 安城寿子/Yahoo!ニュース編集部)

「石津謙介デザイン」という通説

JOCのホームページには、東京オリンピックの公式服装に関する記事が掲載されている。そこには「公式服装を手がけた服飾アーティスト」として石津謙介の名前が明記されている。
国立博物館・昭和館の2008年の企画展「オリンピック 栄光とその影に」の告知ホームページには、「日本選手団の公式服装はブレザーが赤、帽子とズボン・スカートが白という鮮やかな『日の丸カラー』であった。デザインはデザイナーの石津謙介氏が担当した」と紹介している。

石津謙介(1911-2005)は、メンズアパレルブランド「VAN」を手がけ、ちょうど、東京オリンピックの頃に、「アイビールック」(アメリカン・トラッド、スタイルの一つ)のブームに火を付けたことで知られる人物である。

東京オリンピックの開会式は、1964年10月10日、東京・国立競技場で行われた。(写真:アフロ)

秩父宮記念スポーツ博物館のホームページには、「VANを創設した石津謙介のデザインで、アイビー調のユニホーム」とある。
2014年に江戸東京博物館で開催された「オリンピックと新幹線」展では、「石津謙介デザイン」というキャプションとともにユニフォームの実物が展示されていた。
2015年8月1日(夕刊)の『日経新聞』に掲載された「日の丸カラー超えて 五輪ユニホーム、デザインに歴史」という記事には「デザインを考案したメンバーには『アイビールック』生みの親の石津謙介さんも」という記述がある。

さらに、2016年6月18日の『産経新聞』の記事「『2020年、日本のデザイン力を世界に示せ』デザインが表舞台に躍り出た昭和39年の高揚」では、写真のキャプションに、「開会式で行進する日本選手団。石津謙介らが手掛けたおそろいのブレザーなど、デザインは東京五輪の成功を支えた」と書かれている。
東京オリンピックの公式服装をデザインしたのは石津謙介というのが通説になっているようだ。

男性用公式服装一式(所蔵:ダイドーリミテッド)

当時の資料にはどう書かれているか

しかし、当時の資料を紐解いてみると、石津ではなく別の人物がデザインを手がけたという記述がいくつも見つかる。

東京オリンピックの公式服装の生地を提供した大同毛織(現ダイドーリミテッド)には、一冊のアルバムが所蔵されている。
そこには、あの赤と白のユニフォームが飾られたショーウィンドーを映した何枚もの写真が貼られている。
東京オリンピックの開催を記念し、1964年に全国のデパートで行われたウィンドーディスプレイの様子を収めたものだ。
どの写真にも、「デザイン望月靖之」「製作ジャパンスポーツウェアクラブ」「生地大同毛織」と書かれたプレートのようなものが映っている。

丸栄デパート(名古屋)での東京オリンピック開催記念ウィンドーディスプレイの様子を収めた写真(所蔵:ダイドーリミテッド)

1964年10月16日の『読売新聞』には次のようにある。

「東京大会のブレザー製作に活躍した望月さんは、かねがね日本独自の色をと念願していたそうで、赤と白を大胆に分けたこんどのブレザーは、これまでのものと比べると、まさに画期的。
自信をもって日本のナショナルカラーが打ち出せたと自信たっぷりです。赤は情熱、白は清潔のシンボル。
ぬけるような秋空にはためく日の丸そのものの美しさなのです」

964年10月号の業界専門誌『日繊ジャーナル』も、「ブレザーの色は日の丸と同じ朱色であるが、これは望月氏の四年越しの念願。氏は『東京大会には是非、朱色でいこうと思いローマ大会をみにいったが各国ともその70%がナショナルカラーを服装に表現している。
日本も国旗の日の丸でいくべきとハッキリ決めたわけです。
朱は情熱に燃える若人の心と愛をあらわし、配する白は清潔感を象徴したもの』と熱をこめて説明する」と報じている。

ネクタイのデザイン画。「日照堂」とあるのは望月のお店の名前(所蔵:富士川町スポーツミュージアム

望月靖之とは誰か

東京オリンピックの公式服装をデザインした人物として多くの資料に登場する望月靖之とは何者なのか。

山梨県富士川町にある「富士川町スポーツミュージアム」には、それを知るための手がかりが多く残されている。
町営のこぢんまりとした資料館だが、中に入ると、デザイン画、通行証、記念の盾、近親者だけに配られたという望月の自伝など、彼のたどった足跡を伝える貴重な品々が展示されている。

望月は、1910年にこの町に生まれた。自伝によると、10代の終わりに上京して洋服商となり、弱冠20歳で独立開業したという。

望月靖之の写真(所蔵:富士川町スポーツミュージアム)

望月とオリンピックの関わりは、日本が戦後初めての参加を果たした1952年のヘルシンキオリンピックにまでさかのぼる。
この時、望月は、公式服装の仕事を自分に任せてもらえないかと日本体育協会(1988年までJOCの上位団体)に申し出た。
もちろん、何のあてもないところに手を挙げたわけではない。
東京・神田にあった望月の洋服店は、戦前から、日本大学の制服を仕立てる指定商だった。

当時の日大と言えば、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた水泳選手の古橋廣之進をはじめ、多くのスポーツ選手を輩出していた大学である。
日大水泳部出身で日本水泳連盟会長を務めた林利博さん(79)によれば、22種目ほどあった日大の運動部のうち、18種目が学生選手権を制覇するほどの勢いで、日大からは続々とオリンピック選手が誕生していったという。
林さんは当時を次のように振り返る。

「その後JOCの役員になった人もいたな。ボクシング部の柴田勝治さんとかね。OBも含めて、お互いあだ名で呼び合う親しい付き合いをしていました。
その輪の中に望月さんがいたことは確かです。
皆、卒業しても望月さんの店で洋服を作るのが当たり前になっていました。望月さんの五輪ユニフォームの仕事はそういう絆の中で出てきたものだと思います」

望月愛用のループタイとメキシコオリンピック(1968年)の通行証。望月は、メキシコ大会の公式服装のデザインも手がけている(所蔵:富士川町スポーツミュージアム)

こうして、望月は、ヘルシンキ大会において、デザインを含む公式服装に関する仕事の一切を任されることになった。
この時、生地を提供したのは東京大会と同じ大同毛織だが、同社は古橋廣之進が1951年に就職した会社でもある

きっかけとなった秩父宮の言葉

先に引用した1964年10月号の『日繊ジャーナル』の記事には、「ブレザーに関心の深い秩父宮殿下から『ヘルシンキ大会のはブレザーでなくユニフォームだ』といわれたことに痛く恐縮し、だからこそ一念発起『心血を注いで』ブレザー作りにかけることになったという望月氏である」とある。
また、望月自ら、同年10月1日に関係者一同を集めて行われた「日本代表選手団ブレザーコート完納祝賀パーティ」の挨拶の中で、「想えば秩父宮ご在世のみぎり、遠征する選手団の服装には気を配ってやらねばならない旨のお言葉を承って以来、殿下のお言葉が耳から離れない」と語っている(『洋装ジャーナル』1964年10月1日号)。

望月が東京オリンピックの公式服装をデザインしたことを裏付ける資料と望月の自伝(自伝は祖父の代から望月と懇意にしてきたという深澤一正氏提供)

ブレザーは、19世紀前半、ケンブリッジ大学のボート部の部員たちが、オックスフォード大学との対抗試合で、ジャケットの色を彼らのカレッジカラーの燃えるような赤(blazing red)で統一したことに起源があると言われる。
それは本来、ある集団にとって特別な意味を持つ色でなければならない。
紺色は日本を象徴する色ではないし、望月も何か意味があってそれを選んだわけではなかったから、日本選手団にふさわしいブレザーであるとは言えない。
秩父宮はそのことを指摘したのだと望月は理解した。

日之本の国(ヒノモトノクニ)の赤と白

ある時、望月は、歌舞伎の鑑賞中に、「我が日之本の国(ヒノモトノクニ)は」という台詞に耳を奪われた。
そして、日本と太陽の強い結び付きを発見する。
望月の自伝にはこんな一節がある。

「そうだ日本のマスコットは桜の花ではない、富士山でもない、『太陽』だ、真赤に燃えた太陽だ、だから我々の先祖は太陽を国旗に取り入れたのだと思う。
世界各国の国旗を見ても、ほとんど星で、丸い太陽を取入れ国旗に表わしたのは世界で唯一日本だけだ。
例えば日時でも、日本が正午と仮定すれば台湾は11時、バンコックは10時、フランスは午前4時、更に日付で日本が10日と仮定すれば、アメリカはまだ9日だ、日出ずる国のマスコットは世界に誇れる太陽だ、その太陽の深紅の色だ」

ヒノモトノクニ。太陽。日の出。日の丸。さらに、祝い事に紅白を用いる日本の伝統にも思い至った。こうして、望月は、赤と白こそ日本のナショナルカラーであると考えるようになったという。
そして、それぞれの色に、日本の若き選手たちの「情熱」と「清潔」という意味を込めた。

1956年のメルボルン大会、ローマ大会(1960年)は望月氏の意見は受け入れられなかった。

東京オリンピックの赤いブレザーは、8年ごしの念願がかなってようやく実現されたものであった。

 

「貧乏人の注文服」批判

1964年6月4日、『読売新聞』に一つのコラムが掲載された。タイトルは、「貧乏人の注文服:東京オリンピックのブレザーコート」。
アメリカ選手団の公式服装が既製服であることを引き合いに、アメリカよりも経済力の劣る日本の選手が高価な注文服の公式服装で開会式に臨むことを批判したものだ。

「入念な仕立てであるということは、この一着を長く着よう、古くなれば裏返しをして着る。あげくの果ては、子供のものにでも改造して、孫子の代まで活用しようとする日本の貧困性からうまれた、衣服の考え方にほかならぬ。
(中略)見せびらかしのために着るたった一着のよそ行きだから、無理しても、身分不相応でも、金を惜しまぬという悲しい習慣から生まれたものに相違ない」

随分と手厳しいこの批判の主は誰であったか。

他でもない、石津謙介である。

当時、服飾評論家としても活動していた石津は、この記事の前半で、ブレザーを赤にするという選択は「賢明だった」という評価を与えつつも、それが高価な注文服であることを批判したのだった。
この公式服装をデザインしたのが石津であるなら、自分の仕事をこうして論評するということはあり得ないだろう。

一方で、石津は、東京オリンピックと全く無関係というわけでもない。

1965年に東京オリンピック組織委員会がまとめた資料によれば、石津は、森英恵や芦田淳とともに、「大会の運営に従事する者の制服」の指名コンペに参加している。
審判、通訳、誘導、警備などのスタッフ用ユニフォームである。
審査の結果、作業員と用務員の男性が身に着けるユニフォームに石津のデザインが採用された。
こちらは、注文服ではなく、サイズ展開のある既製服として制作されたようだ。

いつ?どうして?——「石津デザイン説」の誕生

1964年当時は「望月デザイン」と報じられていた東京オリンピックの公式服装だが、いつ頃、どのようにして、「石津デザイン説」が広まったのだろうか。

「石津デザイン説」の初出は定かではない。1995年にパルコから出版された『ストリートファッション1945-1995:若者スタイルの50年史』という本に、「VANの石津謙介が東京オリンピックの男子選手用のブレザーをデザイン」とあることから、遅くとも、この頃までには、「石津デザイン説」が通説化していたものと考えられる。

1980年、モスクワオリンピックの年には、「石津デザイン説」の端緒となりそうな情報が発信されている。

ダイドーリミテッドに所蔵されている当時の資料。社内での公式服装の展示に使用されたとのこと(所蔵:ダイドーリミテッド)

1980年1月31日号の『週刊文春』の記事によると、この年、石津は中国から、同国の公式服装のデザインの依頼を受け、五星紅旗(中国の国旗)の赤を取り入れたユニフォームをデザインしている。
結局、それは、ソ連との関係が悪化した中国がオリンピックへの参加を見合わせたため、日の目を見ずに終わった。
同記事には、「国家的規模の行事ではね、東京、札幌オリンピックと万博のときの制服のデザインを日本政府に頼まれてやりました」という石津の発言が掲載されている。

確かに石津は、東京オリンピックの作業員と用務員のユニフォームをデザインしていたわけだが、何の予備知識もなくこれを読んだら、公式服装のことだと誤解しかねない。
同年2月号の『NUC情報』という機関誌にも、同趣旨の石津の文章が掲載されている。こうした情報の発信がきっかけとなって、徐々に「石津デザイン説」が通説化していった可能性は否定できないだろう。

ブレザーの胸ポケット(所蔵:ダイドーリミテッド)

1964年の東京オリンピックの公式服装のデザインは、石津ではなく望月——。
こうした資料や証言があることについて、石津事務所はどういう見解なのか。事務所の広報担当者によると「監修者としてデザインに関わったが、デザイン画は描いていないと聞いている」と説明した。
しかし、当時の公式服装のデザインの監修者として石津謙介の名前が記されている資料は見つからなかった。

望月靖之は2003年に他界している。彼はこうした事態を把握していたのか、把握していたとすれば、それに対して何か抗議をしなかったのか。
東京オリンピックの前年から望月のもとで働いてきたという男性(75)はこう話す。

 

「そりゃ怒ってましたよ。でも、知ってる人は知ってるからいいんだということで過ごしていたんです」

漸く事の真相を理解することができた。

引用元http://news.yahoo.co.jp/feature/342

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1964五輪ブレザー巡る「暗闘」を知っているか

国の威信をかけた「日章旗ブレザー」誕生秘話

リオ五輪の開催式で日本選手団が着用する赤いブレザーと白いトラウザースは、1964東京五輪の赤いブレザーにオマージュをこめたデザインのように思える。
製作したのは高島屋。
素材は機能性や暑さを考慮して、ストレッチニットや吸湿速乾性に優れた高機能素材を使用しているらしい。

「犬猿の仲」であったふたりの”攻防”

東京五輪で製作されたブレザーは日章旗ブレザーと呼ばれる。国の威信をかけた一着であったことが判る命名だ。
この服のデザインは、ブレザーの名前を一般的に知らしめたVANの石津謙介だと思われている方も多いだろうが、望月靖之という人物であったことは案外知られていない。

しかも石津と望月は犬猿の仲であったという。五輪のブレザーを巡って、ふたりの間に何が起こったのだろう?

望月は神田三崎町でテーラー兼学生向き生協のような店を経営していた。
そこに水泳ニッポンの名を世界に轟かせた古橋廣之進らが来て望月と親交を深めたことから、次第に体育界の重鎮らの知るところとなり、最初はアジア大会、さらにヘルシンキ、ローマ、東京五輪などで日本選手団の服装を請け負うようになったのである。

引用元http://toyokeizai.net/articles/-/132817

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望月自身はデザイナーでも仕立て職人でもない。営業を得意とし、戦後間もないヘルシンキ五輪のときは素材の調達から縫製まで、テーラーの仲間を募って製作に当たらせたという。
いわば持ち前の行動力と弁舌の明朗さ、そして組織作りのうまさによって体育関係者の信頼を獲得したのである。

 

石津の不満が爆発した記事

しかし石津らが呼ばれたときは、すでに望月の根回しは完了していて、新たなセレモニー用のブレザーを見直す時間はなかったのである。
結局石津たち優秀なファッションデザイナー陣は、大会関係者用の各種ユニフォームのデザインを手がける仕事しかなかった。
石津は欲求不満であっただろう。

しかし望月にも言い分はある。
ヘルシンキ五輪で着用されたブレザーを、当時スポーツの宮と呼ばれて国民に親しまれ、欧米の服装マナーにも通じている秩父宮殿下にお見せしたところ、「これはブレザーではない、単なるユニフォームだよ」と言われてしまったことがあるからだ。

引用元http://toyokeizai.net/articles/-/132817?page=2

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既製服が台頭してきた時代に

1964年といえば戦後の紳士服をリードしていた注文服のシェアが半数を割り、既製服が台頭してきた時代と重なる。
危機感を感じた新旧のスターテーラーたちは力を振り絞って選手団450名もの日章旗ブレザーを作りあげたのだろう。

この勝負、仲良く引き分けと見た。尊敬する大先輩のおふたりにおかれては、「次の東京はどんなデザインが出るかね」などと、天国で酒を酌み交わしていることを、若輩者の筆者はただ願うのみである。

この勝負、仲良く引き分けと見た。
尊敬する大先輩のおふたりにおかれては、「次の東京はどんなデザインが出るかね」などと、天国で酒を酌み交わしていることを、若輩者の筆者はただ願うのみである。

引用元http://toyokeizai.net/articles/-/132817?page=3

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真紅のブレザーに白のスラックス
1964年の東京オリンピック開会式で
「日の丸カラー」の公式服装
(開会式用ユニフォーム)は、
服飾デザイナーの石津謙介氏がデザイン
したと聞いた

でも真相は望月靖之氏のデザインで
赤は情熱、白は清潔のシンボルの
イメージが採用された。

ぬけるような秋空にはためく
日の丸そのものの美しさ・・・
だそうだ。

複雑なデザイナーの世界では
両氏は永遠ライバルのような
感じがする。

(remon)

 

 

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remon

remon

長女として育ったけれど我儘な部分が多い。 宇宙人的な性格と言われるが本人は、 いつも全力投球で生きてきた。 長く医療の場に身を置いてきたことで 人との心の触れ合いをモットーに 相手の心に寄り添いうということを学ぶ ことができた。 日常の暮らしの中から沢山の 学びがあるよに・・・ 面白いことを求めて走る超わがままな自由人 として、ホットな情報をお届けします。

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